みなさん、こんにちは、「転ばぬ先の散歩」道先案内人:ふみちゃんです。
今回は、滋賀の地元で、1300年以上の歴史を乗り超えてきた大宝神社を散歩しました。
スポンサーリンク
大宝神社の始まり
大宝神社は、滋賀県栗東市綣7丁目に位置し、栗東駅西口から徒歩10分ぐらいのところに鎮座している。
現在はあまり大きくないが、歴史を辿ってみると、その巨大さと偉大さが垣間見える。
今から1300年以上も前の奈良時代(701年)に、この地域で疫病が流行、民が苦しんでいた時、この地にあった追来神社(ついきじんじゃ)の境内に、素盞鳴尊(スサノオノミコト)とその妻である稲田姫尊(イナタヒメノミコトー別名:クシナダヒメ)が天から舞い降り、疫病の苦しみから民を救った時から、大宝神社の歴史は始まっている。
現在でも、本殿右脇に追来神社、左脇に稲田姫尊を祀る稲田神社が境内社として存在している。
神がおわす場所としての鎮座という言葉が相応しい、なんとも歴史に埋もれた神の社である。
歴史は古いが、大宝神社としての名前は、意外と近年である。
最初は、神から、今宮応天大神宮の神号を授かり、社名を大宝天王宮としたようで、神様の位で最高位の正一位と定められている。
その後、現在の大宝神社の名前になるのは、1100年以上も後で、時代が大きく変動した王政復古の時代になる。
大宝神社の名前になるまでの歴史の中で、この神社は、仏教と融合しながら、足利・織田・徳川などの武士との関係、さらには皇族家との関係を持ちながら、時代の流れに翻弄されてきた。
仏教や武士との関わり
仏教との融合については、当時、2つの考え方があった。
天台宗の山王神道と真言密教の両部神道の2つの考え方である。
神が舞い降りた時代から約100年後の平安時代800年に、この大宝天王宮は、真言密教の両部神道の考え方と融合し、伊勢神宮の流れになる真言密教と深い関係になったとされている。
その後、時代に登場する武士の寄進や没収などにより、その領地の拡大や縮小を繰り返してきた。
室町時代(1433年)には、6代目将軍足利義教(あしかがよしのり)が、天下泰平を祈念して311石の領地を寄進している。
江戸時代の概算になるが、1石は、米150キログラム(2.5俵)、面積にして300坪というから311石というと、約米800俵、面積で9万坪(甲子園球場20個分)の寄進になると思われる。
したがって、現在では想像のできない領地を構え、この地域の神社や寺院をしたがえ、まさに、綣村周辺、いや滋賀・京都などにまたがり君臨していたと思われる。
そういえば、鳥居門のすぐ脇に、西琳寺と仏眼寺の古寺を発見した。
まだ、周辺には古刹が多く散在しているのであろう。
中世においては、4月の例大祭、8月の相撲祭など、周辺50余郷に及び、広大に催事が実施されたとあるから、当時の大きさが想像できる。
その後、再び疫病が流行らないよう、神様に感謝し、人々が健康でいられるようお祈りした例大祭は、4月の最初の子の日に引き継がれてきた。
現在の5月に開催される大宝神社の年一回行われる大きな祭り例大際となっている。
また、1480年ごろ9代目将軍足利義尚(あしかがよしなお)は、当神社の遥拝所(ようはいしょ、遠く離れたところから拝む場所)を陣中に建立したと伝えられている。
このようなことから、とりわけ足利氏との関わりが深かったようである。
しかし、その領土も、1571年、織田信長による神領没収により、一旦、上地(お上の土地)となった
しかし、その後の検地により、由緒ある土地として免除地になっている。
江戸時代になって、徳川家は、この綣村を、渡邊山城守(わたなべやましろのかみ)に治めさせ、境内社日吉神社の灯篭を作るために、一段歩(約360坪)の土地を寄進した。
灯篭については、神社の至る所に奉納されており、まさに灯篭に取り囲まれた神社とも言え、さまざまな灯篭を楽しめる神社でもある。
その後も、渡邊山城守の子孫に、この神社の修理などの管理を任せている。
江戸時代中期には、氏族である足助氏(あすけし)が神社で祭司を司る資格を持った神主(かんぬし)職になっている。
※氏族と家族~氏族は血のつながった一族の事で、源氏や平氏など、家族は一緒に住んでいる人たちの集団
栄華を極めた時は、本社以外の境内社は34社にも及び、お釈迦さまを祀った三重搭をはじめ、護摩堂・薬師堂・神楽堂・鐘桜堂・経堂等が建ち並んだといわれ、その壮大さがイメージできる。
皇族との関わり
皇族との繋がりも深いようである。
1716年、人形寺で有名な京都の宝鏡寺(ほうきょうじ)の親王(皇子や皇族男子)の病気の平癒祈願を、当神社が行い、その全快のお礼として、四脚門(しきゃくもんー本柱の前後に4本の柱を要した建築様式)が寄贈された。
その四脚門の脇に広がる塀には、5本の線が横に引かれている。
この白い線は、定規筋と呼ばれ、皇族に由来する格式を表すもので、3本、4本、5本とある。
中でも5本線は、もっとも位が高く、二条城や京都御所にも見られる。
1788年には、御室御所(おむろごしょー天皇の隠れや?、現在の仁和寺らしい)から紋章月提灯が寄進されており、現在も使用されている。
1868年、王政復古により神仏分離令と共に京都の佛眼寺との分離、曹洞宗の神應院(じんのういん)の院号破棄により、同年4月、社名を大宝神社と改め、現在に至っている。
今も残る威厳
この大宝の名は、現在でも、この地域に馴染んでおり、大宝小学校や大宝郵便局などが存在している。
お宝といえば、鎌倉時代前期に奉納された木造の狛犬がある。
木造狛犬の中では、もっとも有名で、明治時代に国宝に指定され、現在は、京都国立博物館に保管されている。
また、大宝からイメージできるのは、宝くじであろう。
いつのまにか、大宝神社も宝くじの神社として親しまれるようになった。
大宝神社の本社の石段脇には、宝くじに当たるよう宝くじ券で作った千羽鶴が奉納されている。
ご利益のあった人も多く、千羽鶴に付けられた札には、何億円、数千万円のご利益があったことが記されている。
栗東の地にこのような歴史ある古社が存在しているとは、大きな発見である。
まだまだ、散歩する価値のある地域だ。
スポンサーリンク