日本のへそ?、綣(へそ)の謂れと歴史!

転ばぬ先の散歩

みなさんこんにちは、「転ばぬ先の散歩」道先案内人のふみちゃんです。

今回、初散歩、地名の言われを散歩しました。

最初の散歩は、拠点を構えた栗東市綣(へそ)について地名の謂れなどを散歩したいと思う。
「栗東」、「綣(へそ)」の地名の謂れと歴史である。

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栗東の地名は?

京都から、JRで、山科を越えると滋賀県に入る。
大津、膳所、石山、瀬田、そして立命館大学と龍谷大学の学舎に学ぶ学生が多く利用している南草津、滋賀県民が一番住みたい街:草津を越えると、栗東にたどり着く。
その先は、近江八幡、彦根、米原と続き、北陸風情が漂う地域が広がる。
栗東は、北陸につながる入り口のような地で、冬には、雪雲が少しかかる地域である。

京都からJRで30分弱の距離である。
快速だと、あっという間だが、普通でゆっくり琵琶湖を行くのも風情がある。
大津あたりから、住宅と住宅の間隔が広まってきたように感じる。
この先も、その広がりは大きくなってゆくのだろう。

JRの駅周辺には商業施設が広がる。
草津駅には、百貨店、スーパー、ショッピングスクエアが広がっている。

栗東駅は、東口と西口に分かれている。
東口は、スーパーマーケットを中心とした商業地域、西口は学校や住宅が広がる住宅地域と、わかりやすく分かれている。

栗東といえば、まず、馬を思い浮かべる人が多い。
競馬馬の訓練地で有名だからだが、駅周辺には、その面影があまりない。

まずは、「栗東」の謂れから探索してみた。
1879年の(明治12年)の行政区画によると、滋賀県の南部に、現在の草津市、栗東市、大津市の一部、守山市の一部を有する広大な栗太郡(くりたぐん)という郡域が存在した。
栗東の地名は、その栗太郡からきていると思われる。
まさに、栗太郡の東部にあたる。

綣(へそ)は、日本のへそ?

そして、その栗東駅周辺は、綣(へそ)と言われる地名で呼ばれている。
綣(へそ)1丁目から10丁目まで、栗東駅を中心として綣(へそ)が広がっている。

その昔、この地域では、麻織物が盛んで、織物機に麻糸を巻いた糸玉を装着して織物を織っていた。
その糸玉のことを綣(へそ)と言ったそうで、それが地名になったと言われている。
「糸」に「巻」と書いて綣(へそ)という字になっていることにもうなづける。

謂れはわかったが、その綣(へそ)の地名は、いつごろから存在していたのだろうか。
早速、探索してみた。

住宅が広がる栗東駅西口を右に、線路沿いをしばらくいく。
線路の高架下を右にみて、左に進路を取り、参道のような歩道を少し登ると珍しいモニュメントにぶつかる。
まさに「ぶつかる」という言葉に相応しく、突然現れる。

参道といっても、車も通る狭い道である。
狭い道に、無理やり参道を作ったのか、車一台通るのがやっとである。
しかも、車が多く行き来して、一方通行ではないので、車のどちらかが止まって、みちを譲らねばならない。

その珍しいモニュメントは、地球儀のようで、真ん中に日本があって、さらにその真ん中に、滋賀県の琵琶湖が青色でクローズアップされ、この栗東あたりを指して「へそ」と書いてある。

「へそ」というと、日本のへそ、つまり日本の中心地として名乗りを上げている地域がある。
兵庫県西脇市、群馬県渋川市、長野県茅野市などである。
いずれも、日本地図の真ん中といった感じがする。
ただし、栗東市の綣(へそ)は、歴史もあり、謂れもあり、日本の「へそ」に最も相応しいということで、このモニュメントがあるのであろう。
2001年2月に、栗東市の綣行政区が設置したもので、北緯と東経・海抜が明記してある。

そのモニュメントを右に曲がったところは、いくつかのお寺を従えた大宝神社の西側の入り口にあたる。

綣(へそ)は、いつから?

この大宝神社の入り口に、このモニュメントがあるということは、綣(へそ)の地名の歴史もここにあるのではないか。
このモニュメントの後ろには、「芭蕉の句碑」の案内版があった。

まずは、その松尾芭蕉の句碑を探すことにした。
大宝神社は、かなり大きな古社のようで、歴史も深いので、また次回に探索することにして、まずは、芭蕉の句碑である。

大宝神社の境内に入って左に、石灯籠が立ち並ぶじゃり道をいくと、大宝神社の正門の鳥居がある。

その左には、鎮守の森の名残を漂わせた小さな森がある。
現在は、子供が集う大宝公園となっているが、やや薄暗さを感じる。
歴史を漂わせた暗さである。
そして、その森は、大宝神社を取り囲むように広がっていた。

その森の入り口の木々の根元に、松尾芭蕉の詠んだ句「へそ村のまだ麦青し春のくれ」の句碑があった。
したがって、江戸時代前期には、「へそ」の地名があったということである。

さらに遡ると、万葉集にも、「綜麻形(へそがた)の林のさき狭野棒の衣につくなす目につく我が背」~綜麻形(へそがた)の林のはずれ野萩が、着物に染まりついて離れないように、目について離れないわが背の君よ~と詠まれている。
この歌は額田王(ぬかたのおおきみ)一行が、近江に下った時に、同行した人が詠んだ歌とされている。
近江大津京への遷都は、667年のことなので、その当時から、この地を「へそ」と呼んでいたことになり、江戸時代前期より1000年も前に存在していたことになる。
まさに、「綣」は、歴史ある地名である。

この歌に登場する林は、大宝神社に残る先ほどの鎮守の森かもしれない。
そう思うと、これから、綣(へそ)周辺を探索していくが、その歴史の深さにワクワクの思いである。

日本のどこかに「へそ」の地名があるか調べてみたが、滋賀県栗東市の綣(へそ)しかなかったように思う。
まさに歴史ある日本のへそである。

今回は以上。

引用資料
・特定非営利活動法人街道をいかしたまちづくりの会
・地域情報ライター

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